大場久美子である。
私は歌のあまりお上手ではない歌い手さんに興味をそそられるタイプで、その意味でクーミンは大好物だ。
歌が上手いということとは、どういう要素で成り立っているのか。音符通りに歌えるとか、ビブラートなどのテクニックが優れている、とか、リズム感がある、高音が出るとか。でもそんなものはいずれAIがやってのける未来がくる。
テレビのカラオケ番組を見てて、カラオケの採点基準に合わせて歌い、高得点を出す歌い手さんを見てもあまり面白みを覚えないのは、単に歌の技巧が上手いのみ、だからだ。
私が魅力を感じるのは、歌が上手いことにプラスして、そこにノイズをのせてくる歌い手さんだ。その人のくせや個性、えぐみみたいなものか。人はそれを無意識に受け取っている。
美空ひばりなど、皆が真似したくなるのはそのノイズに引っかかりを覚えるからで、声質そのものにも、歌うときに首を固定したまま顔を左右にスライドさせるしぐさにも、口角をこれでもかというくらい下げるのも、ノイズである。
ぴんからの宮史郎や森進一みたいに、声そのものがノイズな人もいるし、北島三郎みたいに、存在感の大きさがそのままノイズとなる人もいる。ちあきなおみのほの暗いオーラを背負ったたたずまいもそう、聖子ちゃんのキャンディボイスもそう、チャンでもラムでもいいけど、アグネスのような輸入歌手の舌足らずな日本語だってノイズだ(最近の韓国あたりの輸入歌手は日本語が上手すぎやしない?)。
そのようなひっかかりを無意識に受信して、なんかすごいぞ、面白いぞ、と人は感動して拍手を送りたくなる。
ノイズも勘定にのせて、歌が上手い、芸が熟練している、と人は心の底から言える。
歌が上手い以外の要素でひっかかりを覚える、ということが実は歌手にとって意外と大事な要素かもしれない。
問題は、歌が上手くないことがノイズな人である。昭和という時代の懐の深さで、歌が上手くない人にもレコードを出すチャンスは巡ってくる。
歌が上手くない、ということは魅力足り得るのか。
結論は、魅力足り得るのである。ただし、曲や詩の世界観によって、許される/許されないがゆらぐ。
安田成美の歌う「風の谷のナウシカ」がいい例で、細野晴臣の作る、マイナーコードのイントロからメジャーコードのAメロへと流入する不安定な流れに、安田成美の少女のようなか細くゆらぐ歌声が乗り、松本隆のナウシカの世界観を絶妙に表した歌詞が広がっていく。
安田成美はけっしてうまい歌手ではないけど、うまくないことがこの曲の持つ説得力を強めている。
そういう意味で、パソコンでの音程補正ができる現在の風潮は、私みたいな人間にとってあまりありがたくないし、誰でも彼でもレコードを出していた風潮が戻ってくれば風の谷のナウシカみたいな奇跡の一枚が生まれるかもしれないと思う。
大場久美子である。
昭和53年の12月7日リリースのep「ディスコ・ドリーム/ミルキーウェイ」。
ジャケットは素晴らしい。背景はボカされているけど、これディスコかな。照明器具のようなものが映っているが、ディスコの象徴ミラーボールは見当たらない。もしかしたらテレビ局のスタジオで撮影を間に合わせたのかもしれない。
作曲は、和泉常寛で、この人はオメガトライブの製作陣として活躍した人で、他にも
とか、
などを手がけている。
ディスコ・ドリームはいわゆる4つ打ちのディスコナンバーではなく、クロスオーバーの様であり、ラテンの様でもある。混声コーラスがソウル感があるのでディスコ、と銘打ってもまあ納得か、という感じ。
フランジャーのかかったギターのカッティング、打ってるドラム、センスのいいところでスラップを決めるベース、フィリーっぽいストリングス、景気のいいブラスなど、演奏はとてもかっこいい。
歌は中々な外し加減で、かなり引っかかりを覚える。
しかし、大場久美子に提供されたこの曲、難しすぎやしないか。
歌が上手くないのは、曲によって許される/許されないが左右される、と言ったが、この歌メロの譜割りはなんなのだろう。
♪ごめんねいつかあなた〜に
♪にあ〜あうひとおになるの
にあう、という単語をにあ〜あうと歌わせ、ひと、という単語をひとおと歌わせるのは無理がないかな。
リズム感が怪しい大場久美子が歌う、ということでさらに複雑なゆらぎのあるリズムに変化している。単にずれている、ともいうが。
さっきからうまくない、怪しい、とディスっているが、生演奏に合わせて歌う大場久美子は…
大場久美子 ディスコドリーム Oba Kumiko Disco Dream
かなり誠実にこなそうとしている。
そうだよ、アイドルはそうでなきゃならない。一生懸命さが伝わるから応援したくなる、というファン心理をくすぐる形になっている。そしてなにより可愛い。
ディスコ・ドリームは、かっこいい演奏に不思議なリズム感のリリック、そして一生懸命な美少女の歌声が乗る、フックたっぷりの名曲である、と断言してよい。歌上手くない、が許される側の曲だ。
歌詞も秀逸。大場久美子18才の時のリリースである。高3の女の子とディスコの距離感はどのようなものか。
ディスコはいわゆる不良が行く場所。この歌の主人公の女の子は、少しやんちゃめの男の子に誘われてディスコに行ったのであろう。
やんちゃな男に憧れるのは、クラスでも頭のいい成績優秀タイプの女の子、と相場が決まっている。数々のヤンキー漫画がそれを証明している。
男は遊び人の大学生てとこか。大人の世界を見せてあげようとイキりたかったのかもしれない。やなやつだ。
時のネックレスはずしてきたの、というのは意味不明だが、高校生入場禁止の制限を、年をごまかしてすり抜けて入場した、という解釈が浮かんだ。
主人公の女の子は、意を決してきらびやかな大人の遊び場に足を踏み入れては見たものの、ディスコで踊る、という所作が分からずすっかり臆してしまっている。
分かる。私にも経験がある。
初めてクラブに行ったときは、DJの回す音楽にさも興味深く聞き入るような神妙な顔をして時をやり過ごした。いきなり踊ったりなんかできっこない。人生の中に踊る、ということを迫られる場面は、中学の運動会のときにフォークダンスを踊った時くらいのものだ。嫌な思い出でしかない。
高3の主人公はすっかり及び腰になっているので、誘ってくれた男からの、踊ろう、という誘いにも乗らない。
精一杯おしゃれして、水玉のドレスを着てきたが、笑わないで、とあるように場違いを感じていたのであろう。当時のディスコは、
こんな感じだったのかもしれない。こんな服の人が大勢踊っていたら、水玉が気後れするのは必至だ。
ごめんねいつかあなたに似合う人になるの、という最後の方の歌詞、優等生が悪い友達から悪い遊びを教わって、悪い道に入り込み、人生転落するという結末を予想してしまう。
大場久美子である。
それはないのである。案外人間の芯の部分は変わらないものだ。この歌詞の主人公は優等生タイプ。それを歌う大場久美子もあんなに可憐でかわいいではないか。
そう思って大場久美子のWikipediaを読み返していたら、驚くべき記述があった。
アイドル時代から矢沢永吉の追っかけをやっていて、大人になって矢沢永吉の自宅の近所に家を建てたが、すぐに矢沢永吉が引っ越したという *1
こ、これが大場久美子の芯…!